デジタルとは一般に「連続的なアナログ情報を、とびとびの数値に変換して処理・記憶する方式」と定義されます。
私が最初に「デジタル」というものを意識したのは、子どもの頃に見たデジタル時計でした。それまで丸い文字盤の上を針がゆっくりと回り、短針と長針の角度から時間を「読み取る」という行為をしていました。それが、突然、数字として表示されるようになりました。考えるまでもなく、ただ数字を見れば時間がわかります。そこには「解釈」という過程がほとんど存在しませんでした。
その後、1990年代にインターネットが登場し、世の中は一気にデジタル化へと舵を切りました。
手書きで書いていた書類はワープロへと変わり、やがてパソコンの文書作成ソフトへと進化しました。
写真はフィルムからデジタルカメラへ移り、現像を待たずにその場で画像を確認できるようになりました。
音楽はレコードやカセットテープからCDへ、さらにMP3へと変わり、いまやスマートフォン一台に数万曲を保存できるようになりました。
銀行通帳はオンラインバンキングに置き換わり、買い物も現金から電子マネーやQR決済へと変わりました。
私たちは気づかぬうちに、生活のほぼすべてをデジタルの上で営むようになりました。しかし、多くの人はどこかで「アナログこそが自然で、本来の姿であり、デジタルは人工的なものだ」と感じているのではないでしょうか。
山の稜線や波のうねり、風の揺らぎ――それらは連続的で、切れ目のない世界に見えます。それに対してデジタルは、数値に分解され、区切られ、機械的に処理される冷たい世界のように思われがちです。
ですが、本当にそうでしょうか。
映画やビデオ映像は、私たちには滑らかな連続運動として知覚されます。しかし実際には、1秒間に24コマや25コマといった静止画像の連続で構成されています。私たちの視覚と脳が、それを「連続」として再構成しているに過ぎません。デジタルの点の集まりが、アナログの流れに見えているのです。
さらに自然界を極小の世界まで掘り下げてみるとどうでしょうか。物質は分子から原子へ、原子から素粒子へと分解されます。そこには「連続体」というよりも、明確に区切られた単位が存在しています。エネルギーもまた量子化されています。
つまり、私たちがアナログ的で滑らかだと信じている自然界も、究極的には「離散的な単位」の集合体なのです。
アナログに見えていたのは、人間の認知能力が一定以上の細かさを処理できないために、無数のデジタルの点をまとめて「連続」として感じているだけなのかもしれません。
言い換えれば、アナログとは「人間の感覚が作り出したマクロな見え方」であり、デジタルこそがミクロな実在の姿なのではないでしょうか。
このように考えると、デジタル革命とは単なるコンピュータ技術の進歩ではありません。それは、世界の構造そのものを理解し直す認識の革命です。
インターネットやAI、クラウド、ビッグデータといった技術は、単に便利な道具ではありません。それらは、世界を数値として捉え、解析し、再構成する力を人類に与えました。
医療では遺伝子情報がデジタル化され、精密医療が可能になりました。
製造業では設計から生産までがデータで統合され、遠隔地でも同じ品質を再現できるようになりました。
教育やコミュニケーションも、時間や場所という制約を超えつつあります。
これは「便利さ」の問題にとどまりません。
私たちはいま、自分たちの存在や自然観そのものを再定義する段階に来ています。かつて人類は、地動説を受け入れることで宇宙観を変えました。産業革命によって労働観を変えました。
そして今、デジタル革命によって、世界の見方そのものを変えつつあります。
デジタルとは、人工的な切り刻みではなく、世界の本質に近づくための方法論なのかもしれません。アナログに見えていた世界の奥に、数と情報の構造が横たわっていることを、私たちは知り始めました。
デジタル革命とは、コンピュータの革命ではありません。それは、私たちの認識を本来の姿へと呼び戻す、静かで、しかし根源的な革命なのです。