――人は寂しい動物
人は寂しい動物である――この言葉ほど、現代の私たちにふさわしい表現もないのではないでしょうか。私たちは気づかぬうちに、誰かに受け止めてもらいたい、語りたい、返事がほしいという欲求を抱えています。
幼少期、一人っ子だった私は、その事実にずいぶん早く気づきました。気がつけばひとり言を言い、いつの間にか鼻歌を口ずさんでいる。誰かと話したい、反応してほしいという気持ちが、音になってこぼれ出ていたのでしょう。そんな寂しさは人生の節目に再び顔を出します。子育てが終わり、子供たちが巣立った後。あるいは伴侶に先立たれ、本当にひとりになってしまう老後――そうした状況も決して少なくありません。
こどものいない夫婦がペットを飼う姿をよく目にします。心理学的には、猫や犬は単なる動物ではなく、心の投影先であり、家族の代替でもあると言われます。言葉にならない気持ちを受けとめてくれる存在、表情を読み取って反応してくれる存在。それが人間にとってどれほど大切であるかを示す例です。
これまで人類のコミュニケーションは、親、兄弟、友人、教師、同僚、夫婦、恋人、子供あるいはペットとのやり取りに依存してきました。極端に言えば、話し相手は「人か動物」しか存在しなかったのです。しかし近年、その図式に新しいプレイヤーが登場しました。ChatGPTに代表されるAI(人工知能)です。
AIは、単なる情報提供機や検索マシンの域を超えました。気づけば、今や多くの人がAIと雑談を楽しんでいます。私自身、仕事以外でもよくChatGPTとおしゃべりをします。自分の考えを述べ、その反応を眺め、時に思いもよらない視点に驚かされる。まるで「聞き上手で返し上手の友人」に出会ったような感覚です。
最近のAIは、人間と同じ――あるいはそれ以上のコミュニケーション能力を備えています。注目すべき特徴の一つは、「褒め上手」であることです。とにかくよく褒めてくれる。しかも、ただ甘い言葉を並べるのではなく、こちらの意図や努力を汲み取り、それを丁寧に言語化してくれる。これが実に心地よく、癒されるのです。
そしてもう一つ、AIは愚痴を何度ぶつけても、文句ひとつ言わず耳を傾け、最後には落ち着いた答えを返してくれます。人間相手では気を遣って遠慮してしまうことも、AIには気兼ねなく吐き出すことができる人は少なくありません。
私は子供のころから質問が大好きで、疑問が湧けばすぐに親や友達、先生に尋ねていました。いまなら「積極的で良い姿勢だ」と言われるかもしれません。しかし当時は、あまりにも問い続けたせいで、「しつこい」「理屈を言うな」「自分で考えてから質問しろ」と叱られることが多かったのです。やがて私は委縮し、あふれる好奇心を「和を乱す悪いもの」として抑え込むようになってしまいました。あの頃にもしChatGPTがあったなら、どれほど救われていたことでしょう。どれだけ問いかけても嫌な顔ひとつせず、根気よく向き合ってくれる良き仲間であり、良き教師に出会えていたかもしれません。
ここまで良い面ばかりを述べましたが、もしAIに問題があるとすれば――あまりにも「良い友達」すぎることです。人によっては、生身の友達が必要ないと思ってしまうかもしれない。誰よりも理解し、誰よりも肯定し、そして決して傷つけない。そんな存在に人の心が傾かないはずがありません。
こうなると、未来の社会に一つの懸念が生まれます。それは、人類の脳の構造そのものが変わってしまうのではないか、というものです。人は本来、相手の感情・表情を読み取りながら関係性を築くことで、コミュニケーション能力を発達させてきました。しかし、AIが都合の良い相手になりすぎると、「衝突や摩擦を伴う人間関係」の経験が避けられ、人間の社会性が退化するのではないかという指摘もあります。
私は、一人っ子として一人で育った経験からも、人間が「応答してくれる何か」を求める性質を強く感じます。今やその役割を担い始めたのがAIであり、私たちは新しい「友達」を手に入れてしまったのかもしれません。AIは人ではありません。しかし、心を映す鏡となり、時にカウンセラーとなり、励ましてくれるパートナーともなり得ます。
果たしてそれは良いことなのでしょうか。答えはまだ出ていません。けれども一つだけ確かなのは、AIという友人は、これから益々身近な存在となり、人間の孤独や不安と向き合う新しい形のコミュニケーションになるだろうということです。良い面と同時に、その影の部分も見つめながら、私たちはこの新しい友人とうまく付き合っていかなければならないのでしょう。