情報提供:アドバンテージ・パートナーシップ外国法事務弁護士事務所
国際仲裁弁護人・国際調停人 堀江純一(国際商業会議所本部仲裁・調停委員)
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)専門家
移民の歴史
その1 最初の殖民
最初にオーストラリアに住みついたヨーロッパ人が本国では社会のつまはじき者としてオーストラリアに送られてきた事自体が、このオーストラリアにとっては不幸な始まりでした。本国である英国の国会は1838 年に囚人を護送してきたニューサウスウェールズを、「社会からのハミダシ者のコミュニティーである。」と表現し、「厳しい監督の下で砂漠に放ち、働かせ、彼らの暴動を防ぐために軍を投入する要がある。」と述べました。
しかし、ニューサウスウェールズに護送されてきた囚人達はこのような社会のハミダシ者と、更正不能のような凶悪な犯罪者ばかりではありませんでした。ただ英国の 18 世紀における刑法は、全く野蛮で抑圧的で、筋の通った刑罰などなく、暴動叛乱を抑えつける権力を持ったその当時の資産家クラスの者による分別考慮のない血生臭い罰則手段でありました。それは罪が重い軽いに拘わらずなべて死刑の判断が下され、例えば1723年ウォルサム・ブラックという法令には、死刑につながる200 以上の犯罪事例が挙げてあり、余りに罰則が酷であると思われる時には、軽減すると書かれております。時代が進むにつれて、死刑が減刑される件数も増え、裁判官君主の大権による慈悲判 が下されるようになり、通常39シリングの物の盗みを働いた者などを裁く陪審員のなかにも慈悲を求める者も出て来たりしました。何しろその当時は、40シリングまたはそれ以上の窃盗はすべて死刑が執行されていたのです。
その当時の英国には絞首刑以外にあまり刑罰がありませんでした。確かにロンドンにはニューゲイトなどという拘置所などもありましたが、それは例外で多くは民営の牢獄で、牢獄の所有者は囚人からまきあげた金で生計を立てていました。その様な状態で囚人のクラス分けをするに一番いい方法が、囚人達を海外に流刑する事となったのです。事実囚人を海外に移送する罰則は1597年以来行われて来ており、当時英国の植民地であったアメリカはその意味で絶好の囚人の移送地になっていました。事実アメリカの資産家、叉大地主などは労働力として輸送されてきた囚人たちを重宝しましたし、他の囚人は西インド諸島にも送られました
しかし1776年アメリカの独立宣言によりアメリカ植民地への囚人達の移送は事実上不可能となりました。そこで他の移送地を考えなければならなくなり、移送する目的地の目途が立つまで、一時しのぎに囚人達を河 港にある廃船に留置したりしましたが、この状態も長続きするものでなく、オーストラリア・シドニーのボタニー湾に新しい植民地を作る結果になったのです。 がて1786年アーサー・フィリップ船長にニューサウスウェールズに植民地を設立せよとの任命が下されました。
この様にして英国より囚人達がニュウーサウスウェールズに送られて来るようになりましたが、流刑されて来た囚人の多くは住居不法侵入などと言うとるに足らないような些細な罪に問われていた者です。最初の船団で送られてきた囚人736名中100名が強盗またそれに近いもので、殺人 強姦などの罪人は一人もいませんでした。
それら囚人達の中には単に食べ物を盗んだだけの罪の者もあり、少数ながら子供も混じっており、最年少者はわずか9才でした。この様にささいな罪を犯した者までが最初の船に乗せられて流刑地に送られて来たのです。
最初の船団がオーストラリアに向けて英国を出帆したのが1787年、それ以来囚人の数は、オーストラリア流刑が終わる1868年まで約163,000 人に昇りました。しかしながら、ニューサウスウェールズは単なる流刑基地ではなかったのです。英国は新しい植民地を建るに当たって流刑地を制定する方法を作成しなければなりませんでした。そこで1788年1 月26日に簡素な植民地設置の式が執り行われニューサウスウェールズの支配権は英国君主にあると宣言し、1788年2月7日には新たな領地の確保を公表するもっと盛大な式典が行われました。総督フィリップの委任状が読み上げられ、続いて新しい植民地の設立に関する英国政府の法令、そして最初の植民地法が発布されました。
この様に英国が植民地統治を宣言した土地は、非常に広大で北のケープヨークから南のヴァンデミアンズ・ランド―タスマニア島の南端に及び、西は西経135度、全体でオーストラリアの約半分を占めました。
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