情報提供:アドバンテージ・パートナーシップ外国法事務弁護士事務所
国際仲裁弁護人・国際調停人 堀江純一(国際商業会議所本部仲裁・調停委員)
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)専門家
オーストラリアNSW州:精神障害労災補償制度改革法案の概要と影響
概要
ニューサウスウェールズ州政府は、精神障害に関する労災補償制度を見直す法案を州議会に提出しました。この法案は、近年増加する職場における精神障害による労災請求や制度赤字に対応し、労災補償制度を持続可能な形に立て直すことが目的です。主な制度改革の内容、労働者・企業への影響、法案の審議状況などについて解説します。
背景と概要
ニューサウスウェールズ(New South Wales:NSW)州政府は、精神障害に関する労災補償制度を見直す法案「Workers Compensation Legislation Amendment Bill 2025」を州議会に提出しました。この法案は、近年増加する職場における精神障害による労災請求や制度赤字(直近年度で18億豪ドルの赤字と指摘されています)に対応し、労災補償制度を持続可能な形に立て直すことが目的です。NSW州政府は、精神障害の発生予防と早期支援にも重点を置き、職場のメンタルヘルス対策への予算投入(約3億4400万豪ドル)や専門監査官の増員なども併せて発表しました。以下では、主な制度改革の内容、それによる労働者・企業への影響、利害関係者の反応、そして法案の審議状況について解説します。
主な改革内容
・精神障害による労災申請手続きの強化
職場でのいじめ・ハラスメントなどによる精神障害について、労災申請前に事前の事実認定プロセスを経ることが求められます。当初案では、産業関係裁判所(NSW州産業関係委員会など)での公式認定が必要とされていましたが、労働組合などの反発を受け、最終法案では社内による8週間以内の迅速審査に置き換えられました。この変更により、申請中の労働者には、最大8週間分の一部給付が暫定支給される措置も導入されます。ただし、依然として、労災申請に先立ちハードルが課される点に変わりはありません。
・「過度な業務負荷」の補償対象化
長時間労働や人手不足などによる過度な業務負荷(excessive work demands)が、新たに精神障害の正式な補償原因として明記されます。これにより、「上司や同僚からのいじめ・ハラスメント」「業務上のトラウマ体験」に加え、極度の業務量・業務圧力も労災補償の対象事由として認められることになります。
・WPI基準の大幅引き上げ
後遺障害の重篤度を示すWPI(Whole Person Impairment、全人的労働能力喪失率)の基準が、精神障害については現行のおよそ15%から30%超へと引き上げられます。WPIとは心身の障害度合いを百分率で示す指標であり、30%は日常生活で身の回りのことを自分で行うのが困難になるレベルを意味します。この変更により、長期の休業補償や一時金の支給を受けられる精神障害のケースは、大幅に限定される見込みです。実際、The Law Society of New South Wales(法曹協会)は「WPI基準を31%に上げれば、事実上ほとんど全ての精神障害請求が排除されかねない」と懸念を表明しています。なお、本法案では、長期の週給補償が無期限で認められる障害等級要件についても漸増させ、2025年10月に25%、2026年7月には30%超へ段階的に引き上げることが盛り込まれています。
・補償範囲の見直し
精神障害の「一次的・二次的」区分の定義が導入されます。具体的には、もともと身体の負傷に付随して発生した二次的な精神障害については、治療費などは支給対象でも後遺障害の一時金支払いの対象にはならないことが明文化される見込みです。また、「業務上の適切な指導・措置(reasonable management action)」によって生じた精神的ストレスは労災とは認められないとの既存の原則を法文上明確化し、正当な人事評価や規律処分に起因するメンタル不調については企業側が補償責任を問われにくくなる条項も含まれています。これは、定義の明確化による紛争予防を狙ったものですが、運用次第では高負荷な業務環境や厳しい職場文化が原因の正当な請求まで排除されかねないとの指摘もあります。
労働者への影響
提案されている改革により、労働者が心理的な労災補償を受けるハードルは、全体的に上がると予想されます。特にWPI基準の引き上げは、長期的な補償や後遺障害一時金を受け取れるケースを極めて重篤な事例(例えば自力で生活できないほどの障害)に限定すると考えられます。労働組合の試算によると、新基準の下では「正当な請求の95%が補償対象から漏れる」可能性が指摘されました。
また、いじめ・ハラスメントが原因の精神障害については、申請前に事実関係の審査プロセスを経なければならず、これにより補償開始までの遅れや手続き負担が増大します。精神的に傷ついた労働者が速やかに支援を受けられず、さらなるストレスや経済的不安に晒される懸念があります。専門家や労働組合は「深刻な心理障害を負った労働者が援助を得られないまま職場復帰を強いられ、安全でない状態で現場に戻される恐れがある」と警鐘を鳴らしています。
一方で政府は、迅速審査の導入や負傷直後8週間分の暫定支援給付、そして予防策強化によって「必要な支援は確保しつつ制度の持続性を高める」と説明しています。しかし、これらの緩和策があっても、全体として以前より補償の対象範囲が縮小し、精神疾患による労災認定・補償取得が難しくなる方向であることは変わりありません。
企業への影響
企業側にとっては、今回の改革は労災保険料の高騰リスクの抑制につながる可能性があります。近年NSW州では、精神障害に関する労災請求の急増で制度運営コストが膨らみ、何も請求歴のない企業でも数年間で保険料が3割以上上昇すると予測されていました。ビジネス業界団体は「このままでは善良な企業まで重い負担に耐えきれず、事業継続が危ぶまれる」と警戒しており、改革による制度の安定化に期待を示しています。補償要件が厳格化されることで、保険給付金の支出の抑制とプレミアム上昇の歯止めが期待でき、結果的に企業負担の増大ペースが緩和される見込みです。
一方で、企業の労務管理への責任は一段と重くなります。法律改正により職場の心理的リスク要因への予防対策義務が事実上強化され、SafeWork NSWなどの規制当局による職場メンタルヘルス対策の監督や執行が強化される見通しです。企業は、職場いじめ・ハラスメント防止や適切な勤務環境の整備にこれまで以上に注力し、問題が発生した場合には早期に社内において解決を図る体制を整える必要があります。迅速審査の過程で、企業側にも調査協力や是正対応が求められるほか、万が一、IRC(Industrial Relations Commission of NSW、産業関係委員会)による命令となれば、公的な謝罪や最大10万豪ドルの賠償措置を科される可能性もあります。加えて、請求前の紛争処理プロセスが新設されることで法務対応の負担が増し、一部では訴訟コストの増大を招く懸念も指摘されています。
総じて企業は、職場のメンタルヘルスに今まで以上に配慮した経営管理を行うことが求められますが、適切に対応できれば長期的には制度安定による恩恵も享受できるでしょう。
支持・反対の主張
本法案を巡っては、経済界と労働者側で意見が大きく分かれています。ビジネス側(支持派)の代表であるBusiness NSW(州経営者団体)は、現行制度では精神障害の労災請求が年々増加し制度を圧迫し、何の落ち度もない企業まで保険料の高騰に苦しむ「不公正で持続不能な状況」だと批判してきました。同団体のダニエル・ハンターCEO(最高経営責任者)は「抜本的な改革なくしては、制度全体が行き詰まり、結果的に労使双方にとって不利益が生じる」と述べ、企業負担の軽減と本来支援が必要な重度なケースへのリソース集中のため、今回の改革を支持すると表明しています。NSW州政府も「財政的に破綻した制度では誰も救えない」としてビジネス界の懸念に理解を示しており、今回の改革は制度の将来世代までの維持を図る「責任ある施策」だと強調しています。
これに対し、労働者側(反対派)の労働組合や被災労働者支援団体は「この改革は財政優先で労働者保護を後退させるもの」と強く反発しています。Unions NSW(州労働組合評議会)のマーク・モーリー書記長は、「本来、優先すべき職場でのケガ予防ではなく、最も弱い立場にある負傷労働者を見捨てる内容だ」と厳しく非難しました。同氏は特に、WPI30%という基準について「オーストラリアで最も厳しい心理障害補償要件であり、これでは95%もの正当な請求が門前払いされる」と述べ、ごく一部の重症例しか救われないと指摘しています。
また、看護師組合などからは「労災申請前に法的手続きを要求するのは、心理的負担を増やし二次被害を招く」との批判も出ています。医師会や法律家団体も「精神疾患は症状の特性上、回復に長期間を要する場合が多いのに、一定期間後に支援を打ち切るのは現実を無視している」と懸念を示し、抜本策よりも負傷労働者の排除による帳簿上の改善を図る「短絡的な対応」ではないかとの批判が出ています。
一部の専門家は中間的な立場から、制度の財政健全化の必要性は認めつつも「改革には慎重な検討と社会的合意が欠かせない」と提言しています。The Law Society of NSWは、持続性改善のため、一定の見直しは支持しながらも「WPI基準は15%から21%程度への引き上げに留め、深刻なケースの大半に補償が行きわたるようバランスを取るべきだ」との妥協案を示しました。また、拙速な立法を避けるため「本法案の採決をいったん見送り、より広範な関係者との協議を経てから再提案すべきだ」と審議の一時停止・再検討を求めています。このように、本法案は各方面から支持・反対さまざまな声が上がっており、今後の調整如何では内容が修正される可能性も指摘されています。
現在の審議状況と今後の見通し
2025年5月下旬に州議会へ提出された本法案は、現時点で議会審議中であり、内容の一部修正や成立時期については予断を許さない状況です。5月中旬には本法案に関する特別委員会での公聴会(Inquiry)が行われ、そこで出された提言や指摘を受けて、NSW州政府は一部方針転換(IRC事前審査の撤回など)を余儀なくされました。しかし、依然、最大の争点であるWPI30%という要件は維持する方針であり、与野党・関係団体との調整は難航が予想されています。最終的な法案成立までに一定の修正、妥協が図られる可能性も高く、例えば前述のWPI基準についてはより低い水準に緩和されることや、施行時期の延期なども取り沙汰されています。
日本人労働者・日系企業においても、本法案の行方に注目しつつ動向をフォローすることが重要です。成立した場合には速やかに新制度に対応できるよう、社内制度や労務管理の見直し準備を進めておくことが望まれます。変化の詳細が固まり次第、NSW州政府や保険会社などから追加のガイダンスが発表される見込みですので、最新情報の収集に努めてください。
注意事項:
本稿は法的アドバイスを目的としたものではありません。必要に応じて専門家の意見をお求めください。
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