ジャパン/コンピュータ・ネット代表取締役 岩戸あつし

寄る年波のせいなのか、年末年始になるとノスタルジックな気分に浸ってしまう。芸能人、綾小路きみまろのフレーズに「あれから40年」というのがある。彼は、真っ赤なスーツを着込み、ロイド眼鏡をかけ、扇子を片手に持って舞台上、右に左に走りまわって中高年に向かって演説する。あれだけ愛し合った夫婦が40年も経つと全く違った立場、生活になっているという皮肉をコミカルに語る。それが「あれから40年」だ。わたしも他人事と笑ってはいられない。彼が風刺する正にその歳に入っているのだ。さて、40年前の私は何を考えて何をしていたのだろう。今回は年末年始ということもあって、ITの歴史を軸にして自分の歴史も振り返ってみた。
1982年と言えばパソコンがスタートして間もない時期である。70年代後半にスティーブ・ジョブズがアップル社を立ち上げ、すでにApple I、Apple IIを販売し、今日パーソナル・コンピュータ(パソコン)と呼ばれる小型コンピュータジャンルの先駆者としての成功を収めていた。大型コンピュータ市場で圧倒的なシェアーを誇っていたIBMは、新興産業のパソコンで後れを取っていた。将来巨大な産業に発達する可能性を秘めたパソコン市場。IBMはアップル社の成功に脅威を感じ始め、独自のパソコン開発を急いだ。
ハードウェア(機械)の設計はIBM独自で行い、そのハード仕様はランセンス・フリーにした。つまり、他社によるクローンPC生産を許してIBMグループとしてアップルに対抗しようとした。OS(基本ソフト)をビル・ゲーツ率いるマイクロソフト社に開発させてPC-DOSという16ビット用OSを開発しIBM-PCに載せた。マイクロソフト社は、IBM社以外の他社製IBM-PCクローン機に対して独自のMS-DOSを販売できる権利を獲得していたため、この年に急成長した。
1982年というとスティーブ・ジョブズ、ビル・ゲーツ共にまだ27歳の若さであった。日本ではどうだったかというと、NECが初めての16ビット日本語仕様パソコンであるPC-9801をその年に発売したところだった(それまでは、PC-8800シリーズと言って8ビットパソコンだった)。因みにわたしはというと、偶然彼らと同年齢でその時はまだ貿易会社で働いていた。ただ働きながら大阪にあったHAL(ハル)というできたてのコンピュータ専門学校の夜間部に通っていた。まだPCを職業にすることは考えていなかったが、なんとなくPCが自分に合っているような気がして、大枚をはたいてNEC PC-9801を翌年に買った。まだ5インチのフロッピーディスクを使っていたころだ。

「あれから40年」

マイクロソフト社はビル・ゲーツ指揮の元、爆発的に成長。40年の間にお世話になったコンピュータ巨人IBM社を売り上げで抜いた。OSも白黒画面だったMS-DOSからフルカラー・グラフィックス上でマルチタスク、マルチウィンドウズのWindowsシリーズに切り替わった。パソコンのスピードも千倍以上になった。またパソコンの販売台数はテレビを抜いた。長年CEOを務めたビル・ゲーツは数年前まで何年も続けて世界長者番付No.1をキープしていた。彼はすでに引退して研究開発支援財団を作り、IT以外(たとえば新薬などの医療関係)にも貢献している。
現在アップル社の資産は、2021年11月19日時点で時価総額約296兆円(ウィキペディアによる)で世界一の企業である。ビル・ゲーツ率いるマイクロソフト社が基本的にソフトウェアに集中して、ハードウェアは他社の参入、協力を仰いでいたのに対し。スティーブ・ジョブズ率いるアップル社は、ハード、ソフト共に自社開発という方針を取った。スティーブはアップル社の創始者の一人であるが、1985年自らが招き入れた新社長に会社を追い出された。それからアップル社の業績は低迷し紆余曲折の後、1996年にスティーブは再び返り咲いたという波乱の人生を送っている。彼は返り咲いた後、i-Mac、i-Pod、i-Pad、i-Phoneというユニークな商品を次々と世界に送り出した。またAppleのロゴが入った黒くカッコいい作業服姿で、マイケル・ジャクソンがコンサートで使っていたようなワイアレス・マイクを身に着け、CEO自ら新製品発表のプレゼンをするという今日流行のスタイルを作った。残念ながらジョブズは、2011年に亡くなったが、彼の才能、リーダーシップは今でも高く評価されている。
さて日本はどうだったか。1991年までは絶好調であったが、バブル崩壊後経済が全く停滞してしまった。ITの分野でも先進国だけでなく、中国、韓国といった新興国にも後れを取ってしまっている。わたしは商売柄よくこんな質問を受ける。「最先端産業でトップを走っていた日本がなぜITで世界に後れを取ったのか?」わたしの答えであるが「ITという新しい産業の規模と将来性、人材配置を日本が見誤ったこと。具体的には、大学でコンピュータ・サイエンスを学んだ学生が新興のIT企業に行かず、給与が高い銀行や商社、メーカーに流れたこと。多くの日本人が、ITを軽んじていて「おたく」に任せておいたらよいと考えていたこと(IT企業はどちらかというとブルーカラーに判別されていた)。さらに言えば、日本人は経済発展によりプチ・ブルジョアになっており。戦後経済成長の時のようなフロンティア精神がなくなり、変化を好まず、守りに入ってしまっていたことだ。新しいものにチャレンジする人、企業がいなかった。育たなかった。(ソフトバンクの孫正義さんのように極貧から大成功した人はいるが、彼は例外的と言える)」 最後にわたしはと言えば、そのお陰といっては皮肉な話になるが、文系卒のわたしが30歳の時にIT企業にプログラマーとして転職することができた(まだ、そういう時代であった)。そして1992年にオーストラリアに移住して、図らずしも(自然の流れの中で)IT会社を起業して現在に至っている。

Share This