第174回 ●子育ては誇り高く

子どもに対して責任感をきちんと持っている親ほど、子どもに何度注意してもできないとき、つい感情的になって厳しく叱りつけてしまいます。また、両親のうち、特に、一緒にいる時間の長い方の親は、そうでない方と比べて、自らに課した課題が多くなる分、どうしても、ストレスが溜まりがちで、いつものその人なら怒ったりしない場面でも、叱り飛ばしてしまいたくなります。決してその親の性格が悪いからではありません。手を抜かない、真面目な人だから、一日、子どもに付き合っているうちに、疲れ果ててしまうのです。

近頃は、子育てを母親に任せきりにしている父親は少なくなりました。しかし、それでも、父親が働きに出ていて、母親が家の仕事のほとんどを賄わなければならない場合など、それはもうどれほど大変なことでしょうか。その上、この世で最も大変な仕事である子育ても一人でこなさなければならないとなると、肉体的にも、精神的にもきつく、一日のうちに、何度も崖っぷちを経験するというほどに、ストレスフルです。この大変さは、外で働くだけでは、どうしても知ることができません。夫が外で働いて疲れて帰ってきたとして、家で楽をしていたに違いないと見える妻が不機嫌だったとしても、少々家事に手抜きが見られたとしても、そこで文句を言うのは控えましょう。互いに思いやりをもって、想像しがたい一日をねぎらい、気持ちをサポートすることで、新しく、ゆとりをもって、次の日を迎えられるようにしてください。

少しでもよいので、夫婦で語り合う時間を持ち、微笑を交わすことを忘れないようにしましょう。疲れて帰ってきて休みたいのに何やかやと頼まれる、そんなとき、「何しに帰ってきたんだか」などと思わずに、家族を支える優しさを持ってください。家にいた者も、一日中、休みなく、それこそ、子どもが小さければ食事もトイレも自由に行けないような生活をしてきたのちに迎えた夜なのです。実際、外で働くほうがずっと楽です。子育てはエンドレスで、仕事の担当も責任の所在もすべて自分にあって、その上、まったくの無報酬。誰かが評価してくれることもなく、周囲から文句は言われ、子どもには憎まれ口を叩かれ、と一日を通して、ろくなことがありません。にもかかわらず、子どもが大きくなるまで、ひたすらに子育てに従事することができるのは、ひとえに子どもを愛しているからです。子育てという無償の愛は、欲しくても買うことはできません。ですから、子育てをしている親は、それだけで、何よりも素晴らしいのです。

さて、本当は優しいのに、お子さんと向き合い過ぎて、叱りすぎてしまう人は、どうすれば腹を立てずに済むでしょうか。しつけのために叱ることは大切ですが、叱り過ぎは、子どもにとってもよくありません。子どもの失敗が目についても、いちいち全部を咎めずに、叱る数を減らし、むしろ手を貸してあげることをお勧めします。要領の悪い子には、手を差し伸べて、手伝ってやって構いません。放置するのでもなく、親が代わってすべてやるのでもなく、一緒にするのです。怒らずに、丁寧に、教えながら。手がかかる子どもほど、「この子をちゃんと育てられるのはこの私」という凛とした誇りを持って育ててください。その強く、深い気持ちは、子どもの心に時間をかけて沁みていき、いつの日にか、人を信じ、人を大切にできる強さを持った、優しい大人になることでしょう。楽でない育児ほど、生きがいとなる、優れた、素晴らしい育児なのです。

第173回 ●すすんで動く子どもに

赤ちゃんを卒業し、自立心が芽生えてからの子どもは、落ち着いたかと見えて、何度も反抗期を繰り返します。子どもが自発的に活動するようになればなるほど、大人の言うことは、その頃の子どもから見れば、面白くないことばかりです。まだ遊びたいのに、「お食事ですから、お片付けしなさいね」、もっと見ていたいのに、「もうテレビはおしまいですよ」、せっかく楽しく過ごしているのに、「そろそろお風呂に入りましょう」、……。子どもにとっては、がっかりすることばかりです。実に一日のうちのほとんどの指示が、子どもの気持ちをそっちのけにした一方的な要求です。もちろん、大人にはれっきとした理由があって指示を出しているのですが、少しも嬉しくない要求に、幼い子どもが素直に従うというのは、大変に骨の折れることです。

そんなときに、よくやってしまう失敗が、「縲怩キるなら(しないなら)、もう縲怩オてあげませんからね」といった脅しです。このときの子どもの気持ちを想像してみましょう。自分の気持ちは汲んでもらえず、その上、嫌な罰を与えると予告され、強引に言うことを聞かされるわけです。これは、まさに「意地悪」です。確かに、この方法で言うことを聞くこともあるでしょう。しかし、すすんで行動したことになりませんし、しつけどころか、子どもに、意地悪の方法を教えることになってしまいます。

子どもも大人も、罰が待っているより、愉しみが待っているほうがいいに決まっています。ですから、少しだけ言い方を変えてみましょう。たとえば、「お片付けしないなら、お外に連れていってあげませんからね」というところを、「お片付けしたら、お外に遊びに行きましょう」と言ってみてください。「言うことを聞かないと悪いことが起きる」ではなく、「やるべきことをちゃんとすれば嬉しいことが起きる」ということにするのです。すると、まるで人が変わったように生き生きと行動を始めます。ぜひ試してみてください。

殊に、例に挙げたお片付けに関しては、お困りの親御さんがたくさんいらっしゃいます。そもそも、子どもがなぜお片付けをしないかと言うと、必要性を感じないからなのですね。大人は、部屋が片付いていないと、不便だったり不愉快だったりしますから、当然、理由があって片付けたいと思うのですが、子どもは違います。おもちゃが散らかり放題でも、何も困りません。むしろ、自分の好きな物に囲まれて幸せな気分です。出したままであれば、いつでも好きなときに手に取って遊べますし、何かほかのことをしていても、目に届くところにあれば、気になるときに、いつでも眺めることができます。それなのに、片付けるように言われるのは本当に不愉快なのです。しかも、たいていの場合、細々としていて面倒な作業のことが多い。そんなとき、「片付けないなら、もう遊ばなくていい。もうおもちゃは買ってあげません」などと脅してしまうと、嫌々片付けることの繰り返しになっていまいます。やはりここは、「やるべきことをちゃんとすれば嬉しいことが起きる」を徹底していただきたいのです。たったひとつでも片付けたらすかさずほめる、といったこともそうですが、手伝ってとことんまで片付け、清々しく整ったお部屋を体感させる、といったことも効果的です。子どもには、快感を得たことを繰り返すという習性が顕著にあります。親子で喜べるようなしつけを心がけましょう。

第172回 ●ユーモアは宝物

私がこれまで教育現場で申し上げてきたことの中に、「ユーモアを持って」というものがあります。欧米ではユーモアのセンスが非常に大切であり、リーダーシップを取る者の資質として重要視されています。家庭教育の中でも、ユーモアのセンスを育てることは親の大事な仕事とされていますし、年頃にもなれば、「パートナーにはユーモアのある人を選びなさい」と指導する親もいるほどです。もちろん、日本でも、ユーモアが社会生活の潤滑油であることは万人の納得するところですし、「笑う門には福来る」という言葉もあります。しかしながら、こと教育現場においては、笑いを抑圧する傾向があります。学校でも家庭でも、子どもはふざけていると叱られますし、教育者も、真面目であることを内からも外からも強いられているようなところがあります。しかし、それでは、親も教師も、何より子どもたちが楽しくないので、本物が身につきません。

笑うことが不謹慎であるという道徳観のルーツは、武士社会にあります。その後も、明治維新で軍人に受け継がれてきましたし、武士から始まった寺子屋の流れが教育界にそのまま影響したということもあるでしょう。いずれにせよ、日本の教育界は、未だ大きな問題を抱えていると言えます。だからこそ、それぞれのご家庭から、ユーモアの解放を推し進めていただきたいと思うのです。日本では、真面目であること、誠実であることが、パートナー選びの条件の最上位に入ります。しかし、むしろ、これからは、「ユーモアのセンスのある人」を選ぶような軽やかさを持つ国であってほしいと思います。

哲学者で、上智大学名誉教授であるアルフォンス・デーケン神父は、「ユーモアは愛に通ずる道」であるとおっしゃっています。ユーモアのセンスに乏しいということは、デーケン神父の言葉を逆から言えば、「愛」に乏しいと言えるかもしれません。ふざけてばかりいる子どもはとかく叱られがちですが、そういった子どもは、「自発性」が順調に発達しており、「やる気」が旺盛であることも証明されています。そして、そういった子どもの家庭には、父親や母親、兄弟に、ユーモアのセンスのある人やそれを許容する雰囲気があることがわかっています。ですから、賢母を目指し続けてお疲れ気味のお母さんには、ぜひ愚母を目指していただきたいと思っています。子どもたちと楽しく遊び、自分の失敗を笑い飛ばしたりしているほうが、完璧な母になろうと頑張るよりも、優しくて楽しい顔になれますし、親がそうであれば、子どもの情緒がどれほど安定することかしれません。大人でも、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしているよりも、何でも面白がって楽しんでいるほうがいいに決まっています。人生をできる限り笑って過ごすのです。

どんなに愛していても、百年と一緒にはいられない家族です。多少の不満や不平は水に流し、終始一貫笑顔で仲睦まじく暮らせたならば、それが最も正しい家庭生活ですし、そこで育っていく子どもも幸せな時代を生きることができるでしょう。お父さんとお母さんがする工夫はひとつだけ。「家庭に笑いを増やすこと」。それは、大いなる夢と希望をもたらします。楽しい家庭で、明るく、朗らかに育った子どもたちは、親亡き後も、必ずや、明るく、楽しい未来を創っていってくれるに違いありません。

 

第171回 ●親はちっとも偉くない

子どものころ、親に、「口答えするな」と叱られた経験のある人は少なくないでしょう。「返事は、ハイでしょ」と親にYESを強要されることもしばしばだったのではないでしょうか。しかし、それは封建時代の名残であって、子どもを伸ばすという意味では最善ではありません。

大人であっても、上下関係が厳しいと言動が大きく制約されます。縦社会に縛られていないほうがもっと自由に学べるでしょう。しかしながら日本は、なかなかこの縦社会から抜け出せないでいます。家庭において、収入の多い人間が上位に立とうとしたり、収入のない人間の自由がなかったりするのは、まさに封建時代の意識をまだ持っていて、差別して生きているということを意味しています。このような状況はいたるところで見られ、日本にはなお不自由な封建意識が色濃く残っているのだと感じざるを得ません。海外に暮らしていても、日本の権力主義による慣習を重んじ、日本における暮らしにくさを再現してしまっているケースが少なくありません。

立場や性差を盾にして、上からモノを言ったり、自分ばかりがいい思いをするというようなことをするのは恥ずべきことであって、何一つ誇れることではありません。何か役職があるということは、偉いということではなく、そのお役目を責任を持って果たすということです。親というお役目も同じです。ところが、権力主義を子育てに持ち込むと、「親に従え」という傲慢な心に結びついてしまいます。会社勤めをしていて、上司の意見や誘いにNOと言えないタイプの人は、家に帰っても家族に対して権力的になりがちです。思い当たる人は十分に気をつけなければなりません。親の「子どもに対する思いやりの心」は、子育てをしていくうちに発達してくるものですが、権力主義は、その発達を妨げてしまいます。

父親、母親というものは、子どもに親にしてもらうのです。もともと私たちは凡人で、大した人格の持ち主でもありません。それが、子どもを授かり親という立場になることによって、途端に偉そうにして言うことを聞かせようとするのは明らかに間違いです。躾のためだと言って相手を怒鳴りつけることは人のすることでしょうか。悪いことをしたからといって叩いたら、悪いことをしない子に育つでしょうか。子どもを睨みつけて怖い言葉で怒ったとしたら、その態度こそ、子どものお手本にはなりませんね。

とにもかくにも保育者の立場にある者は、子どもに対しておおらかであることです。子どものすることが自分の望んでいる通りでないときに、怒らず、その意味を前向きに考えることです。子どもの立場に立って子どもの気持ちを汲むことです。躾をしよう、良い子にしようと厳しくすると、良い子に見えるだけの自発性のない子になりますし、叱られないように嘘を覚え、NOと言えずに「善処します」とごまかす大人になりかねません。躾が身につくどころか、「尊敬できない親に、酷いことを言われたり、体罰を受けたりした」という不幸な記憶が子どもの心に残ってしまい、冷たく、思いやりに欠ける人格を形成する恐れもあるのです。

子育てとは、怖い顔をして間違いを正すことではなく、優しい笑顔で子どもに接し、自ら日々精進する姿をありのまま見せることです。子どものする「悪いこと」に悪気はありません。強制してやめさせるのではなく、根気よく気持ちを伝え、自己判断が出来る日を待ちましょう。

第170回 ●躾がすべてではありません

子どもによっては、何か思い通りにならないと、大声で叫び続け、1時間でも2時間でも泣き続けるということがあります。そういう子どもの世話を一日中つきっきりでしている母親にとっては、こっちが泣きたいと思うほど、つらくてしんどいものです。怒りたくない、広い心で受け止めたい、と思っていても、積み重なるとイライラが募り、度々爆発してしまうというのはよくある流れです。

大人でも、「もっと遊びたい」「もっと寝ていたい」「嘘をついて誤魔化したい」といった利己的な欲求は多かれ少なかれ誰にでもあります。しかし、私たちは、そういう欲求や感情をコントロールして暮らしています。泣くことで生命を維持していた赤ちゃんが、成長していくにつれどのようにして自制することを覚えていくかというと、それは、母親と感情を分かち合う体験を積み重ねていくことから始まります。にっこりする赤ちゃんを見てにっこりするお母さんにもっと喜ぶ赤ちゃん、はじめてのたっちやあんよができてうれしそうな赤ちゃんと一緒に、手をつないでうれしそうに歩いてくれるお母さんを見てもっと喜ぶ赤ちゃん。こうした喜びの共有をできるだけたくさんすることが大事です。「子どもが喜ぶことをしてあげるのが親の喜びなのだ」ということがちゃんと子どもに伝わっていると、早い時期から感情のコントロールができるようになります。逆に、親の都合や感情に子どもが振り回されているうちは、子どもの自制心は育ちません。親が子どもの気持ちに合わせていれば、必ず親の気持ちを考える子に育ちます。
泣きわめいているときは、「なんとわがままな子だろう、このままではいけない、厳しく躾けなければ」と考えがちですが、実はその反対です。子どもにとっては、「お菓子が食べたいのに、今食べられない」「もっと遊びたいのに、もう帰らなくてはいけない」「楽しい番組が終わってしまった」といったことで、つらく悲しく、深く傷ついているのだということを想像してみてください。泣けばきっとお母さんがなんとかしてくれると期待して、必死で泣いて訴えているのです。ですから、どうぞ怒らないであげてください。子どもが何度もしつこく繰り返して泣いたり怒ったりしたとしても、最後まで穏やかに接してください。最初のうちは変わらないように見えても、親が「穏やかに」を通せば、いつか穏やかな子になります。
花には、たんぽぽのように世話いらずの花もあれば、蘭や菊のように繊細な世話をしなければ咲かない花もあります。人間も同じです。子どもには欲求の強い子と弱い子がいます。手のかかる子もいれば、かからない子もいます。しかし、それは、躾がうまくいっている、いっていないということとは無関係です。子どもには、生まれ持った素質、個性があるのだから、ただ、その子に合わせて子育てをするというだけのことです。手がかかるタイプの子なら、手をかけてやればよいのです。子どもが満足できるまで十分に手をかけてやれば、驚くほど早く自律できる子になります。
子どもが幼いうちというのは、親が構ってもらえる本当に短い蜜月です。いっぱい遊んであげて、たくさんのわがままを聞いてあげて、泣いたらすぐにだっこしてあげて、「大好き」と言ってあげてください。たったひとつ大事なことは、最後まで子どもに「キレない」ことです。

第169回 ●思いやり子育て

「甘やかすとろくなことがない」という通説がありますが、果たして本当にそうでしょうか。子どもの願いがいつでも通るという環境は、子どもをわがままにし、いずれ自己中心的な考え方しかできない大人になってしまうから、厳しく干渉したほうがよいという考え方は、むしろ子どもの自制心や自律心の成長を抑え込む結果を招き、周囲を思いやれない人間にしてしまうおそれがあります。
一言でアドバイスするとしたら、「子どもの言うことは何でも聞いてあげましょう」ということです。たとえば、自分でできることでも、「ママ、やって」とねだることがあります。たいして疲れていなくても、「パパ、だっこ」とねだることもあります。そんなとき、親は、笑顔でやってあげればよいのです。それを、甘やかしてはいけないと、「今回だけですからね」と言い含めたり、最初は笑顔でも何度も繰り返されるわがままに親のほうが腹を立てて、「もういい加減にしなさい」と叱りつけたりしていたら、それこそろくなことになりません。何度繰り返そうが、子どもの思いを受け止めてあげることが大事です。「お母さんは(あるいはお父さんは)、自分のお願いをちゃんと聞いてくれるのだ」と理解できれば、子どもの心は安らぎます。そして、次には、お父さんやお母さんの願いを聞いてあげようと思えるようになるのです。
親にわがままを言えるというのは素晴らしいことです。親を信頼しているということだからです。「何でも自分の思い通りになると思ったら大間違いよ」などと幼い子どもに言うのは虐待に近いとさえ言えます。子どものありのままの心を拒絶することになるからです。「またわがままばかり言って!」と叱る前に考えてみてください。子どもの一日は楽しいことばかりのようですが、実は大人以上に多くの困難に立ち向かっているのです。月齢や年齢によって内容はさまざまでしょうし、個人差もありますが、自分で靴が履けない、靴下が脱げない、大切なおもちゃが見当たらない、どうしても今お母さんと遊びたいのにお母さんはお仕事だ、鼻がつまって苦しいのにどうしたらいいかわからない、起きていたいのに眠い、お外で遊びたいのに雨が降っている……。子どもは一日中、何かしら思い通りにならないものを我慢し続けているのです。にもかかわらず、どうにもつらくなってきて、親に甘えて、ごねたり、泣いたりしてみたら、「泣くな!」と叱られるというのでは、人の気持ちに寄り添う大人に育つはずもありません。子どもの態度の前に、親の態度です。よい子に躾けようとする前に、子どもの気持ちに寄り添ってください。
子どもの願いを聞いてあげるときに注意することは、親が喜んでやるということです。「自分でできないの?」と言ってしまってからしぶしぶ動くのではだめなのです。子育ての難しいところは、子どもによかれと思って、要求を押しつけ、子どもの気持ちを抑え込んでしまいがちなところです。「子どもはこうあってほしい」という親の願いが先行すると、躾けはうまくいきません。子どもに「悪いことは悪い」と教えることはもちろん必要なことです。しかし、正論を振りかざし、叱ってばかりいると、子どもは自分に自信が持てなくなり、欲求不満は募るばかりで、決してよいことはありません。むしろ、「子どもが望んでいるお父さん、お母さんの行動、言葉、表情、声とはどんなものか」を思いやりながら育児をしてください。必ずいい子に育ちます。

第168回 ●役に立つ喜び

ずいぶん前になりますが、子どものほめ方にはルールがあると申しました。最近の風潮として、「ほめてほめて育てましょう」というものがありますが、これは、イライラして子どもを虐待してしまうような深刻なケースには効き目があるかもしれません。感情のコントロールが著しく欠如している親の場合は、子どもの長所に目を向けることによって、ほめるという行為が、攻撃に対する抑止力として働く可能性があるからです。しかし、そうではない場合、「ほめてほめて」育てることはおすすめできません。ほめることだけでなく、叱ること、金品を与えること、これらを子育ての動機づけの基本にすると、取り返しがつかなくなります。
ほめて育てると、ほめ言葉を、親の愛を感じる方法として受け取るようになります。何かをしてほめられてはじめて、愛されている、自分が肯定された、と感じます。ほめ言葉を動機づけにすると、子どもはほめてもらうために行動を起こすようになり、ほめてくれる人がいないところではやる気になれません。あるいは、やったのにほめてもらえないと傷つき、気力を失います。ほめる子育てに頼っていると、子どもの中に本来の自己肯定感を育てることはできません。無条件の存在肯定ではなく、他人がどう思うかによって自分の価値を決める、自信のない人間に育ってしまいます。よく思われているかどうかが気になって、不安や緊張にしばられた毎日を生きることになりかねません。
では、叱るという方法はどうでしょう。「何もたもたしてるの、早くしなさい!」と声を荒げたり、「言うこと聞かないなら、外に出すからな!」と脅したりすると、子どもは怯え、その不安を解消するために親の言うとおりに行動します。しかし、これらは躾ではありません。罰を使った支配です。叱ることに効果があるとしたら、それは自分や他人を傷つけてしまいそうなときです。危ないことをしているときは、即その場で叱り、緊急を要することであること、命が危険にさらされるということの大きさを現場で教えることが大切です。しかし、それ以外では、子どもを叱ることは害でしかありません。教え諭すべき場面で、なぜ親が叱ってしまうかというと、それは、腹を立てているからです。こうあってほしい、こうしてほしいという親の欲求に子どもが応えないことに腹を立て、その怒りをぶつけているのです。親の怒りに動機づけされた子どもは、「怒られないために」という後ろ向きの理由で行動するようになります。習慣になると、怒られないと行動を起こさないようになります。しかも、怒っている親に腹を立てながら行動することになります。
動機づけに金品を与えるというのもよくありません。金品をもらうために行動するようになりますし、もらえないとやらない、やってももらえないと腹を立てる、というようになります。思い当たる方は、こうした否定的要素の多い動機づけの代わりに、ぜひ「人の役に立つ喜び」という動機づけを意識して行ってください。必要なのは、行動に対する喜びと感謝の気持ちを子どもに伝えることだけです。「人の役に立つ喜び」を知っている子どもは、ただ人の役に立つために行動します。そのこと自体が喜びなのですから、見返りは必要ありません。勉強も、ただ取り組む面白さや「達成感」を喜ぶように育ったほうがよいのです。

第167回 ●過剰な期待は危ない

親のわが子への愛情はなくてはならないものですが、しばしばその愛情が、親の一方的な都合や願望によって過剰な期待にすり替わってしまうことがあります。子どもにとって、親の存在が重荷や負担になってしまうのは、親が子どもに過剰な期待を寄せているときや過干渉されているときです。こうした関わり合いが続くことは、双方にとって愉快でないばかりか、子どもの自主性や主体性の発達を妨げ、精神の成長に悪影響を与えてしまいます。
「過剰に期待しないよう気をつけましょう」と言うと、学業やお稽古ごとの話をしていると思われる方がいらっしゃるのですが、本当はもっと日常的に注意を払わなければならない基本的な事柄です。たとえば、用事があって出かける準備をしているとき、気が散ってばかりでなかなか準備をしようとしない子どもを「さっさとしなさい!」と叱ったり、親が早く帰りたいときに、帰りたくないと泣く子どもを「わがまま言わないの!」と叱ったり、もう食べなくないと訴えている子どもに、「全部食べるまでずっと座っていなさい!」と叱ったり。しかし、よく考えてみれば、いずれも親の都合や願望で、子どもにこうして欲しいという気持ちを押しつけているに過ぎません。それなのに、親は、よく言うことを聞く良い子に育てなければと、それこそ鬼のような形相で叱りつけてしまいます。このときの子どもは決して悪い子ではありません。親を困らせようとしてわざわざそのような態度を取っているのではありません。ただ素直に子どもらしくそこにいるだけなのです。
子どもには子どもの世界があって、子どものペースでものを考えて成長していきます。それが叶うのは、親との信頼関係があればこそのことです。失敗したり、反抗したりすると恐ろしい顔で怒られる、というような関係の中では、子どもの自由な発達は阻害されてしまいます。今、この子はこうしなければ良い子ではない、こういう結果を出すべきだ、というように、子どもに対して過剰な期待をすることは、子どもに対する拒否であり、ありのままのその子を否定することになります。トイレトレーニングに始まって、歯磨き、テーブルマナー、挨拶に勉強、何事につけても、成果を得ようとするあまり、親の言う通りにしないことにいらだってさらに厳しくすれば、もはやそれは、「虐待」です。躾は子どもへの愛ですが、虐待は自己愛です。親はそのことをよくよく考えて子育てをすることです。
過剰に期待されて育った子どもは、いずれ他人からの指示や束縛によってしか、行動できなくなります。自発性も主体性も育たないのです。子どもは自己愛の対象ではありません。躾をするときに、感情的になり、怒ってしまうという人は、自己愛から子どもに接しています。物理的に暴力を振るわなくても、それは虐待です。子どもにイライラしそうになったら、にっこりと笑ってください。怖い顔をするところから、虐待は始まります。特に、反抗期は要注意です。子どもは、自分を確立していくために、たえず依存と反抗を繰り返します。親の仕事の大変さはここにあります。しばしば、依存は重く、反抗は腹立たしく感じられるものですが、そういうときは、ゆるりと構え、「来た、来た。」と受け取るユーモアを心に持てば、うまく乗り越えていくことができます。毎度、反抗の後にやってくる成長を、どうぞお楽しみになさいますように。

他者の気持ちの分かる子に

報道の中で、まるで最近になっていじめがひどくなったように伝えられることがありますが、本当のところ、子ども時代を経験された皆さんがよくご承知の通り、陰湿ないじめというものは昔からありました。

そもそもいじめは、他者に勝つことで自分を肯定しようとするいわば人間の本能から来ているもので、大人の世界にさえあるものです。ですから、大人よりも経 験の少ない子どもたちのいじめだけを取り上げて、大人たちが「とんでもない!」と偉そうに責め立てることはできないと思います。経験から学び、他者の立場 や心について考え、傷つけないように思いやる精神を育てることで、「他者に勝つ」という自己防衛をしなくてすむようになりますが、それはおそらく大人の世 界でも大変に難しいことです。自分をわかってもらいたいとき、夫婦でさえ、なんらかの形で相手に勝とうとしてしまうものですね。結局のところ、勝負では解 決しませんし、傷つけあうことになりますが、それでも繰り返してしまうのが人間の性なのです。ましてや子どもからいじめや意地悪を完全に取り除こうとして も無理なことです。ですから、こうした問題を考えるときには、「いじめは起こるものだ」という前提から入るべきです。そして、子どもより多少の経験を積ん でいる大人として、見過ごさずに素早く対応してやることです。

心配なのは、期待され、叱ら れ過ぎて自信をなくしている子どもです。そういう子はいじめにあったとき、自分はいじめられて当然なんだ、命を差し出さないと言い分は通らないなどと自分 を追い詰めてしまいがちですし、逆に、他の子をいじめて上に立つことで自信を取り戻そうとする行動にもつながります。こういう子は一見プライドが高そうに 見えて実は非常に自己評価が低いのです。いずれの場合も、まずは子どもの目線に下りることです。そして、子どもの許容量を多く見積もらないことです。

大人でも人間関係でもめるのです。誰かの悪口を言ったり、嫌がらせをしたりする人がいるのです。にもかかわらず、子どもには高尚な精神を求めるというのは 大人の傲慢というものです。子どもはとっくに溺れているかもしれません。「他者の気持ちのわかる子に」と願うなら、私たちは、子どもなりの努力を認め、そ れを立派だと褒めてやる習慣を持つべきです。子どもの悩みにも、上から「こうしなさい」と意見するよりも、子どもの辛い気持ち、悲しみをわかってやり、 「それはつらかったね、よく我慢したね」と共感した気持ちを言葉や態度で伝えてやることのほうがずっと大切なことです。そういうときのうれしさ、安心感が 心の支えになって、苦しみを乗り越える力になり、思いやりの心になるのです。

過去の連載記事

きょういく・ふぉーらむ Vol.1 抱きしめる (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.2 お手本になる (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.3 死生観がもたらすもの (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.4 見過ごしてはならないこと (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.5 育児を楽しんで (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.6 甘えるということ (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.7 ただそのまま受け止めて (PDF)
きょういく・ふぉーらむ Vol.8 他者の気持ちのわかる子に (PDF)

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