2026年10月30日
情報提供:アドバンテージ・パートナーシップ外国法事務弁護士事務所
国際仲裁弁護人・国際調停人 堀江純一(国際商業会議所本部仲裁・調停委員)
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)専門家
移民の歴史
その4 移民法の変遷
移民国家としては珍しく、オーストラリアは官僚的に植民地化されました。囚人の輸送から始まり、その後一般市民に旅費を支給して移住させました。大英帝国の配置下におかれたオーストラリアに白人のみ移住されたことは当たり前と言えば当たり前でした。移住者自身が英国民のみであり、ヨーロッパ文化社会から遠く離れている要素から、オーストラリア植民地社会を英国的な社会にしようと努力しました。アジア人や有色人は入国を禁じられましたし、アボリジニーはこの移民社会の中で、人権が認められていませんでした。しかしこれには例外があり、その当時英国に住んでいた外国人には、オーストラリア植民地に移住し居住する事が出来る権利が与えられていました。この植民地が外国の文化に侵かされるのを危惧して、移民の取り締まりが立法上での協議事項に取り上げられました。ヴィクトリア植民地は、その当時ゴールドを求めてこの植民地にやって来る中国人の増加を恐れて、1855 年に非ヨーロッパ人の入国を禁止した法律を最初に施行しました。同植民地移民制限法は入国船の総重量で中国人の入国を制限しました。つまり10 トン当り1 名としました。しかしゴールド・ラッシュが始まる頃にはこの法律は意味がなくなりました。1857 年に発生したヴィクトリア植民地での金鉱山反乱はヴィクトリアと隣接の植民地を動揺させ、中国人の移住に対して更に厳しい姿勢が取られました。1865 年になると、1855 年に制定された移民制限法は撤去され、かわって中国人移民法が導入されました。この法律下では中国人のみ住民税が課せられました。これが更に拡大され全ての有色移民を制限する法律がオーストラリアの各植民地で施行される様になりました。
この様な有色人移民を制限する動きは新生国オーストラリアの基本政策の重要課題の一部を占めました。政策と植民地の産業及び労使関係は深く係わっており、オーストラリアの連邦化が進むにつれて、オーストラリアは海外からの有色人労働者で国を作るべきでないという意見が強まりました。有色人の移民を制限し、クイーンズランドの砂糖黍畑で働く為に連れてこられた南太平洋諸島の島民を、1906 年までに強制送還させる法案を提出しました。連邦最高裁では同法を有効とする判決を出しました。
英国の衛生国であるがために、必要以上に複雑な移民制限がオーストラリアで実施されました。初歩的な問題として、大英帝国がどのような法的権力をオーストラリアに授与されたのかははっきりしない為、どういう様な移民法を作っていいのか判りませんでした。1888 年に「アフガン」という船がヴィクトリア植民地に入航しましたが、その船の中には多くの中国人が乗船しておりました。その中国人の何人かが偽装書類を所持していた為に、税関と労働組合は水揚げを拒否しました。船は仕方なくニューサウスウェールズ植民地に向け帆を揚げました。シドニーで下船しメルボルンに向かったチャン・トン・トイは入国許可が拒否された事は違法であるとヴィクトリア植民地最高裁に告訴しました。告訴の理由は、外国人を入国させないという権限を大英帝国はオーストラリアの植民地政府に与えていないという事でした。ヴィクトリア最高裁においてトイ氏は勝訴しました。しかし、本件は大英帝国植民地裁判所に上告され、税関の職務行為は正当であり、その職務権限中には大英帝国の領域に不法入国する者を制限する権力が含まれると逆転判決を下しました。
オーストラリアに主権を認める最初の判例となりました。これは19 世紀後半にロンドンからオーストラリアの植民地に移民者を制限する権力が与えられたと法的解釈がなされました。
1901 年の植民地の連邦化にそなえて、各植民地の移民法を統一する事が必要になってきました。1901 年5 月初めて開かれた国会では連邦移民制限法が議論され通過しました。これは南アフリカのナタル地方を治めるのに成功した法律を真似たものであり、以前ニュー・サウス・ウェールズ、西オーストラリア、とタスマニア植民地でも使用されていたものでした。連邦移民制限法は国民から大きな支持を受けました。なぜなら移民制限の方法のについては大きな議論を呼びましたが、過剰な人種差別の言葉を避けた法文は高く評価されました。大英帝国は当然その領域内で最終的権限を所持しているため、1896 年のニューサウスウェールズ植民地、サウス・オーストラリア植民地及びタスマニア植民地で制定された有色人種移民制限法については認可しましたが、ニュージーランド植民地のアジア移民制限法については認可しませんでした。
これらの法案と較べて1901 年の連邦移民制限法は思慮深いものでした。それは直接に非ヨーロッパ人の入国を拒否するものでなく、6か目に渡り、入国拒否者を指定し、間接的に有色人種の移民を制限した処にあります。その内の一つは公務員から要請のあった時には、その者から指定されたヨーロッパ語で50 単語の聴き取りテストにその場で合格しない者。その他禁じられた移民者とは、貧困者、白痴、精神病者、そして不治の病気、又は伝染病者、犯罪者、売春婦もしくは売春に関与して生計を立てている者でした。