東京の秋葉原、大阪の日本橋(にっぽんばし)というと我々昭和世代にとっては電気街として有名だった。古くは、戦後すぐにトランジスターなどのラジオの部品を扱う問屋が軒を並べ、そこに電気オタク(マニア)が通うことで街は電気街として繁栄していった。
昭和30年以降、松下電器(現パナソニック)、ソニー、日立、東芝、サンヨーといった日本のメーカーが、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンといった電化製品を量産販売し出すと、それまでの町の電気屋さんの店先では対応しきれなくなり、電気街にショールームを設けた大規模店舗が続々と進出し、マニアックな電子部品の街から家族で訪れることができる電器製品の街に様変わりした。この街に行けばすべての最新モデルを見ることができ、しかもどこよりも安く買えるということで、大勢の一般消費者が押し寄せる街になった。さらに右肩上がりの好景気を反映して、家電の種類もモデル数も増え、街に並ぶ店はどんどん増えていき、地域も広がり、高層ビルが建ち並び、東京秋葉原、大阪日本橋は揺るぎない家電テーマパークになった。
1985年に、それまで電話事業を独占してきた電電公社が民営化され、NTTと名前を変えた。また国際電話を独占してきたKDD(現KDDI)は国内電話産業にも進出できるようになったが、逆にNTTや新規参入企業が国際電話を扱えるようになり、一気に通信の自由化が図られた。それまで家庭用電話機の色は黒と決まっており、電電公社からしか買えなかったが、自由化になってからは電気街で、カラフルでおしゃれな電話が買えるようになった。またそのころからそれまで主流であったポケベルに代わって携帯電話、自動車電話、セルラーフォーンが登場すると、電気街はいち早くそれらを店舗に並べて新たな顧客を開拓した。
平成に入りパソコンなどのIT製品が登場し、電気街にパソコンやIT製品を専門とする店舗が急速に増えていった。ちょうどそのころ、市場では物流の自由化が叫ばれ、例えば、今までカメラはカメラ屋さんでしか売れなかったものが、電器屋さんでもカメラが売れるようになり、逆にカメラ屋さんが規模を拡大して電器製品やIT製品を置くことができるようになった。そしてそれらの店舗は、秋葉原、日本橋に限らず、都市の至る所にチェーン店を作り、主要な駅前や大手スーパーの中などで店舗展開した。激安をモットーにチラシを丸めてたたき売りするテレビコマーシャルが顧客のハートを掴んだのもこのころである。この物流自由化の波が秋葉原、日本橋にも押し寄せ、わざわざ電気街に行かなくても近くにもっと安い店があって便利だということで、次第に客足が電気街から引いていった。
私は関西出身ということもあり、秋葉原よりは日本橋に通い詰めたものだった。今回日本に旅行して本当に何十年か振りに大阪の日本橋に行った。昔の記憶を頼りに地下鉄恵美須町駅で降りて、堺筋を北に向かって日本橋駅まで歩いた。ところが知っている店がそこにはほとんどなかった。私のよく通った電器屋さんのビルは、建物は残っていたが、そこにはテレビ、冷蔵庫、エアコンがなく、パソコンもなかった。あったのは、アニメ、ゲームである。アニメヒーローの衣装を着た店員が案内していた。そして、その店を過ぎて歩いて行ったが、どこもかしこもアニメとゲームの店に様変わりしており、電子部品や電化製品を売っている店は極端に少なく、すでに電気街は消えていた。
時代と言えばそうであろう。昔の電気オタクであった私が思ったのは、アニメ、ゲームだけでこの街全体で抱え込むだけの市場が今やあるんだなあ~と、現場に立ってしばらく茫然とした。かつての若者が通った電化街は、今やアニメ、ゲームの聖地として生まれ変わっていた。でも落ち着いて考えてみると、時代を先取りしたという意味ではこの街のポリシーは昔から変わっていないのだ。