ジャパン/コンピュータ・ネット代表取締役 岩戸あつし

インドと言えば、今やIT大国で有名であるが、私が留学した1978年のインドはどうだったかというと、世界に誇れるような高度な産業はほとんどなく、万年外貨不足であった。当時インドに語学留学することを日本の友人に伝えたところ、ほとんどの友人が何をしに行くのかと言い、とても不思議がられた。このころの日本人のインドに対する印象は、およそネガティブなもので、貧乏、人口密集、不衛生、差別、また盗難、詐欺などの犯罪が多いというもので、実際に企業の駐在員には通常の手当てとは別に、危険手当が支給されていた。逆によい印象としては、お釈迦様の生地であるというのと、ヨガなどの精神世界の聖地、カレーの本場というくらいのものだった。

80年代になって、私は南アジア専門の日系貿易商社に就職した。そこで日本の有名家電メーカーの製品輸出の担当になった。そのころのインドは、ほとんどの電器製品に200%近い関税をかけ、国内産業を保護していたが、CKDと言って日本から部品の状態で輸入すると関税が60%くらいと安く、後はインド国内の安い労働力で部品を組み立てて完成品を造るというやり方で日本製の家電を輸出していた。インド国産製のラジオ、ラジカセもあったが、値段が高くても日本製のモデルをみんな選んだ。

このころから、インドは外貨稼ぎにドバイやアラブ首長国連邦への出稼ぎを奨励し、それが大きな外貨資源になり、インドのような大国が、外貨獲得を出稼ぎに頼るという歪な経済構造になっていた。ところが1990年に始まる湾岸戦争、それに続く数々の諸問題のため、出稼ぎが制限され1991年には保有外貨が底をつくデフォルト(債務不履行)寸前にまで追い詰められた。そこで当時のナラシンハ・ラオ政権は、1991年に新経済政策と称し、市場原理と競争重視の経済にインドを大転換させた。丁度ソ連邦の崩壊と重なり、それまで社会主義国であったインドは一気に資本主義国の仲間入りを果たした。

ソ連崩壊までは、インドに対しCOCOMという西側の対共産圏輸出統制委員会があり、高度なハイテク部品や製品は輸出できなかったが、制限がなくなったことでインド政府はこのチャンスをどう生かして外貨を獲得したらよいかを考えた。インドは資源も少なく、技術も欧米日本に劣っている。唯一世界と対抗できるのは一人一人の優秀な頭脳であった。人口が多いということで、その分頭の良い人の数も多いだろうという単純計算ではなく、インドはかつて数字のゼロを世界で初めて生んだ国で、数学では世界のトップレベルがたくさんいた。ただ国のサポートがなく、優秀な人たちはほとんど海外に流出していた。

丁度このころからITという新しい産業が登場した。コンピュータ産業はすでにあったが、銀行や一部の大企業が使っているだけで、すべての産業がIT化し出したのはこのころからである。IT産業は、伝統がある電気や機械産業と比べて新参者であるインドに有利であった。ITは優秀な人材とコンピュータさえあれば、大きなインフラは必要ない。しかも始まったばかりで、スタート地点で遅れをとることがない。さらにインドにとって有利だったのは、多くのアメリカのIT企業が、英語ができるエンジニアを求めていたことだ。

それまでインドの国内産業が発展しなかった理由としていくつかのことが挙げられる。まずカーストという身分制があり、カースト間のコミュニケーションを図るのが難しいこと。貧富の差が激しく、低賃金労働者の教育水準が低く、また労働組合が強いということもあった。例えば、テレビやラジカセという生産ラインを作るには頭のよい人たちよりも単価の安い単純労働者が多く必要だ。だが、労働者の教育水準が低く労使の信頼関係もよくないので、日本のようなクオリティーコントロールができない。なにかあれば、すぐにストライキするという具合だった。(後編につづく)

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