ジャパン/コンピュータ・ネット代表取締役 岩戸あつし

 

「我思うゆえに我あり」というのは、17世紀のフランスの哲人ルネ・デカルトの有名なことばである。彼は世の中の一切のものを疑った。たとえばこの宇宙がほんとうに実在するのか、自分以外の他人もほんとうに実在するのか、また自分自身の体も精神も本当は存在するのか?一切は夢ではないか?もしくは悪魔が大芝居を打って自分を騙しているのではないか?デカルトはそう考えた。このような疑問は今でも想像力が豊かな人なら一度は思ったことがあると思う。

そしてデカルトは最終的にどうしても疑うことができないものとして<私>というものに気づいた。<私>という記号は哲学の記号で「疑っているものの主体」を指す。もう少し詳しく説明すれば、<私>は、我々が普段一人称で使っている私や自分(身体も含めた)という範疇ではなく、もっと絞り込まれたところの肉体も人格も含めないところの純粋に「疑っている」だけの主体だとしている(なんのことか、わかりにくいと思うが)。そして、たとえそれが夢の中であっても、疑う<私>だけは(夢の中だろが、悪魔の芝居だろうが)疑う余地がないとしている。難しいことを言っているが、こう考えてみてはどうか。ある問題を出されて、その解答を考えている自分にとって最も究極的なものは、問題でも解答でもなく「考えている」ことで、もし考えていないのであれば、問題も解答も意味がなくなるだけでなく、私自身もないのと同じことになる。

17世紀、新参者の科学が物理、化学などを相手にして、観察、実験というものを通してその正統性を証明し出したのに対し、哲学はデカルト以降、主に考える主体である<私>とそれ以外のもの(物、他人、自分の体など)との関係を相手にしてきた。科学の答えは明快であり、万人が納得する答えを出すが、哲学は、科学の基礎をなしている帰納法や人間の五感に頼るところの観察や実験というものまでも疑った。デカルト的に言うと「私がそのことを考えていなかったら、科学でなにを証明しようとも一切のことはなきに等しい」ということになろう。おそらく哲学はこのように恐ろしく理屈っぽくしかも難解で、それが理解できない庶民から遠ざけられてきたと思う。庶民にとって科学の方がわかりやすいし生活に密着していたのだ。

ところが最近の脳科学、人工知能研究をみると、哲学の範疇に入り込み、哲学者も考え付かなかった新しいことを次々と発表している。たとえば我々は「こうしたい」というはっきりした意識下で自分の意志に基づいて行動していると日頃思っているが、本当は意志というのは脳の無意識のなかで先に決定されて、その結果を後で意識として知らされるだけという研究結果がある。つまり意識というものに自由はなく無意識が下した結果をリードオンリーで意識として後で知らされるだけのものだと言っているのだ。このことをデカルトに当てはめると、「思っている我」は意識の下での我ではなく、先に無意識によって知覚、判断、推理が行われて、「思っている」と意識に登ったときにはすでになにもかも終わった後だということになる。

人間の脳の構造が次第に明らかにされるにつれ、機械で人間の脳を真似してみようとする試みが出てきた。人工知能というのがそれであるが、初期の人工知能は人間の知能の一部を補助したり、強化させたりする目的として造られていた。従って脳の仕組みとは関係なしに論理的なアルゴリズムに基づいてプログラムを作ることが多かった。しかし最近は人間の脳を物理的に真似た人工頭脳を造る研究がされている。なぜ物理的に真似るかというと、一つには人間を超える知能がなかなか造れないために、とりあえず人間の脳の構造を真似してみようという試み。もう一つは逆に脳の仕組みを理解するためのシミュレーションとして使おうという試み。そしてもう一つ「我思うゆえに我あり」の<私>の正体をつきとめられるのではないかという淡い期待もある。

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